Muchonovski got it wrong

なにが なんとも。どれが どうでも。

人種同一性障害について (2)

id:rnaさんのこちらのエントリへのリプライを書きかけのままはや3ヵ月ほどTODOリストに入れっぱなしにしており、リストを見るたびrnaさんにはすごく申し訳ない&後ろめたい気分でいたのですが、このまま寝かせておいてもしかたがないので、一度UPしてしまおうと思います。なお、本エントリの発端となったゆき の ものがたり (Yuki's Story) は既に消失しておりました。そういう意味でも、二重に時宜を逸したエントリです。すみません。

さて、前回書いたときには知らなかったのですが、古い友人がこちらのDr Sam Winter来日記念シンポジウム「性同一性障害」という疾患概念の行方」なるシンポジウムにいってきたそうで、その話も踏まえて色々考えていました。

GID/GDをめぐる疾病概念の変容について

自分が前回はてなブログに書いたのは、おおむね:

  • 性同一性障害はもともと(ホルモンシャワー仮説や脳の性分化不全など)生物学的・生理学的根拠にもとづく疾病概念ではないし、近年は当事者も医療従事者もそうした表象はしないと思う

というような内容でしたが、現在ではそこからさらに進んで:

  • 世界的には、性別に対する違和とそれに伴う苦悩そのものを脱・精神病理化する傾向にある
  • 米国精神医学会の診断基準であるDSM精神障害の診断と統計の手引き)は、DSM-III-R版でGIDを提示して正規の医療コースに乗せる道を開いたが、DSM-5ではGIDを削除してGD(性別違和)に変更した
  • 世界保健機関の診断基準であるICDも、次版(ICD-11)への改訂時にGIDが削除されると予想されている
  • ICD-11ではトランスも同性愛も「社会的状況に関する諸問題」の章(第21章)への引っ越しを提案中。この章は、社会経済的・心理的状況下でハザードに直面する人をヘルスケアサービスにつなげるために設けられている。

という状況にある、とのことのようでした(たぶん、昨年の同名シンポについてのこのまとめと基本的トーンは近かったのではないかと思います)。

つまり、精神医学界の世界的潮流としては、性別への違和感を確固とした疾病概念または精神障害としてとらえるのをやめ、医療介入も当事者の「苦悩」にフォーカスするかたちに再編成してゆく途上にある、と言ってよさそうです。

そもそもGIDは(EIDと違って)「医学的な観点での妥当性」に欠ける「根拠のない疾患概念」ではないと断言できるのか?…といえば、TS/TG当事者の間でも見解は分かれるところだと思います。自分の印象では、90年代から00年代初頭にかけてのトランスコミュニティでは、GID診断→ホルモン/SRSという医療化路線に乗ることへの是非については、様々な議論がされていたように思います。

関係者の尽力によりガイドラインGID特例法の整備が進み、医療化路線で正規の医療介入と戸籍変更への道筋にリアリティが出てきたあとも、自らを障害者とみなすことや、「門番」である精神科医から診断書のお墨付きをもらえるような〈本物の性別違和〉のストーリーをそらんじることへの抵抗感を漏らす当事者はそれなりにいたと記憶しています。

誤解をおそれずに言えば、大多数の当事者が求めているのは、自分の望む通りの性別---それを『自分の本来の性別』だと確信している人もいれば、そうでもない人もいると思いますが---で生きたい、という大きな課題への解決策であって、〈疾病〉枠組と医療化路線は、いま利用できる最も有効な手段のひとつにすぎない。仮に将来、自己申請で性別を変更でき、施術者による身体変更が医師法優生保護法の適用外となり、適切な法的保護もなされるような社会状況が来たなら、自らを性同一性障害と語る人も、埼玉医大ガイドラインルートでの施術に頼る人も激減するのではないでしょうか。…というところまでが、GIDについての私感です。

「人種同一性」あるいは「日本人であること」について

さて、これまで性別違和に苦しむ人々の社会的包摂に大いに貢献してきたであろうGID概念が、時代とともに非病理的な枠組へとリプログラムされつつある現状をふまえると、本題の(自称)EIDの領域と、現在GIDとして指し示されている領域の線引きに生物医学的な客観性を導入する(そして片方を「エセ科学」として斥ける)ことはますます困難になってきている気がします。

DSMもICDも、すでに当事者の自己意識と、その自己をとりまく状況(器としての身体を含む)の摩擦という受苦そのものへ焦点を移しており、疾病としての生物医学的根拠は問題にしなくなってゆく流れにある。ならば、EIDとGID(と現状呼ばれている問題系)のあいだの質的な分割線も、脳や身体ではなく受苦の性質や構造のなかに見出して、「それは精神医学的な救済・包摂の対象にあたらない」とするほうが筋がよいのかもしれません。

これは個人の自己認識の問題では済まない話ではないか、民族の歴史の中で継承されてきたものを担う人たちの共同性に従属しない ethnic identity なんてあるのか? ということです。

Re:人種同一性障害について - 児童小銃

rnaさんのおっしゃる「日本人であること」は、固有の歴史的・地理的文脈のなかにあるもので、その文脈内にいる人が自分の意志で簡単に放棄したりはできない、好むと好まざるとにかかわらず引き受けざるを得ない、〈ままならない〉自己の一部だと解釈しました(そしてたしかに、自分にとっても、「日本人であること」とはそういう属性です)。その文脈を共有していない人が、あたかも可換のパーツのように「日本人であること」を引き受けようとするのは、その〈ままならなさ〉への本質的理解が欠けている=本人の訴える受苦に真正性が欠けていることの証明なんじゃないの?という風に批判することはできるかもしれません。

EIDの彼女は、GIDをめぐって形成された〈政治的に正しい〉語彙資源を流用しながら「日本人であること」と彼女の置かれた文脈(身体・国籍・住環境ほか)との違和を訴えていましたが、彼女の本音は「現代日本の消費文化が好きだけど、それを思う存分に消費できるような環境にない」というだけの話のようにも思えます。

実際、問題の彼女のethnic identityは日々の現実生活で獲得されたものではなく、メディアコンテンツを通して得られた仮想的なもので、日本についての認識はかなり断片的だったし、ズレてました。それを否定するときのカウンターとして「本当の日本文化」を本質主義っぽく立ててしまうと、それはそれで別のヤバさを招き入れるリスクもあるわけですが、あえて民族的本質とか文化的同一性などの強いフィクションを仮構しなくても、〈生きられた共同性/同一性〉と〈仮想された共同性/同一性〉を区別することは、できなくもなさそうです。「あんたは日本人でないことによって生活上の困難とかなかったでしょ?」「〈ままならなさ〉を含む、生きられた共同性を私たちとシェアしていないでしょ?」という風に。

しかしここで、このような〈生きられた/仮想された〉という区分を敷衍していくと、今度は「じゃあ、TS/TGはどうなるの?」という切り返しがどこからかあるのではないか、とも想像してしまいました。リンクを貼ってくださったid:macskaさんの10年前の文章に、このようなくだりがあります。

あるトランスセクシュアルの女性が思い描く「女性像」が現実の「女性」とはかけ離れており、それはむしろ多くの男性が抱く「女性像」に近いのではないかといった印象を受けたことは少なくない。

macska dot org » 「人種同一性障害」とわたしの身勝手な論理

私も同じことを感じたことはあります。再び、ではなぜ、〈仮想されたジェンダーへの同一化〉を望むGIDは疾病概念と医療措置によって救済されるのに、〈仮想されたエスニシティへの同一化〉を望むEIDはそれを許されないのか、という問いに戻ってきてしまうのです。ぐるぐるです。


この話にはこれといってオチはないのですが(まことに申し訳ありません)、自分が彼女に働きかける機会があったとしたら、ここまでの思索を踏まえて:

「もう病気としての性同一性障害はなくなるよ。自己の性別意識と自己の置かれた文脈の間に違和を抱えてて、医療的介入(特に身体変更)や法的保護/支援というかたちで調整・解決が必要なときにそれを行う体制は残るし、より改善されていくだろうけどね。だからあなたが『自分は人種同一性障害だ』という主張を使って、その違和への介入や支援を求めても、たぶん成果は得られないよ。

あなたが日本人に見えるような身体変更手続を求めているなら、同一性障害のスキームによらず、あなたが〈医療的介入に値するような真摯な受苦〉のもとにあると医療関係者を納得させられる、新しい語り口を考えないといけないね。でも、そもそも君が求めてるのは、そういうことなの?」

という風に答えたかもしれないな、と、つらつら書きつつ思いました。

P.S. 

概念に引き寄せられて適切なケアを受けることを阻害されていると思われる例も少なからずあります

Re:人種同一性障害について - 児童小銃

という指摘から、自分は微量放射線障害や化学物質過敏性症候群などを連想しました。確かに、疾病分類の体裁をとった新しい民俗概念や災因論が、真に目を向けるべき本質的葛藤や違和から本人や周囲の目をそらしてゆく、という側面はあると思います。GIDではそのスクリーニングを門番がやるから、そうした問題は起きないのだ、ということになっていますね。